自作ラジオも自作カードゲームも「炎上→終了」の小学生。映画作りやアイドルプロデュースまで手を拡げる、生粋のクラフトマン/博報堂ケトル 畑中翔太さん(前編)

自作ラジオも自作カードゲームも「炎上→終了」の小学生。映画作りやアイドルプロデュースまで手を拡げる、生粋のクラフトマン/博報堂ケトル 畑中翔太さん(前編)

クリエイティビティ溢れる作品で、多数の広告賞を受賞する博報堂ケトル。そのなかでもひときわ存在感を放つクリエイティブディレクター、畑中翔太さん。彼の活動は、「広告」の枠を超え、エンターテインメント領域まで活躍の幅をひろげている。そんな畑中さんは、「幼少期はクラスの二軍リーダー的存在だった」と語ります。生来のクラフトマンが取り組む、コミュニケーションの原点とは?

写真:畑中翔太さん
畑中翔太さん株式会社博報堂ケトル クリエイティブディレクター
2008年博報堂入社。プロモーション局に配属後、2012年より博報堂ケトルに参加。アクティベーション領域を軸に手段とアプローチを選ばないプランニングで、「人を動かす」統合キャンペーンを数多く手掛ける。これまでに国内外の150以上のアワードを受賞。Cannes Lions 2018 Direct部門審査員。2018年クリエイター・オブ・ザ・イヤー メダリスト。
【 目次 】
原体験は自作のアナログラジオ
自作のカードゲームを作成するも、結果は…
恵まれていない環境で戦いたい
「自分が出ることで、みんなで輝きたい」
課題を解決するクリエイティブな仕事へ。

原体験は自作のアナログラジオ

──子ども時代は、どんな思い出がありますか?
学校の休み時間、外に遊びに行く子がスポーツの一軍だとすると、僕は絶対外には出ず教室に残っている側のリーダーでした。二軍のリーダーとしてカルチャーを担う役といったような。遊びの種類も、ゲーム、たまごっち、デジモン、ハイパーヨーヨーそういうみんながハマりそうなものを真っ先に買って学校に持っていく子でした。

──トレンドセッター的な存在でした?
よく言えば、そうかもしれません(笑)。好きだから持って行きましたが、学校ってそういう玩具を持って行くのはダメですよね。それでよく母が先生に呼び出されていました。ラジオを聴き始めた小学生の頃、あの真似事をしてみようと思い立って、小2から2年間「アナログラジオ」を友人と2人でつくっていました。

ラジカセを2台用意して、1台で環境音をダビングしながら、もう1台で音楽を流す。リスナーからのハガキを読んで、自分が好きな曲をかけるという構成。まだネットもない時代で、教室のロッカーの脇に私書箱を置いて、そこに「今週のテーマ」を掲げてクラスのみんなからお便りを投稿してもらうんです。 テーマも回を重ねるごとに段々調子に乗ってきて「担任の先生の嫌なところ!」のお題で募集したら、それを先生に見つかってしまった。それで、その「アナログラジオ」は終わってしまいました。

──なんと! 今でいう炎上ですね。番組をつくるうえでの役割分担はどうされていたのでしょうか?
僕は制作側で、「ラジオやろう」と言い出したのも僕でした。 番組構成を考えてダビングしてみんなに配るアイデアを思いついて、カセットにダビングしてクラスのみんなに回したり。 1週間ごとに新しい回のカセットを配って、割と中心になって活動していました。相方にはクラスの一軍的な親友を連れてきて、しゃべりの担当をしてもらいました(笑)。

──番組をつくるうえでの工夫や気づきはありましたか?
親の影響で自分も好きになったDEENというバンドの曲をラジオでも流していたのですが、リスナーの反応はイマイチ(笑)。人気のSMAPをかけたほうがみんな喜ぶので、改善は加えましたね。基本ですよね、リスナーに合わせるのは(笑)。

自作のカードゲームを作成するも、結果は…

──ほかにも、自作のカードゲームを流行らせたとか?
遊戯王やポケモンカードが流行っていたので、それを学校にいち早く持ち込みましたが、自分でもキャラクターを描き始めました。漫画クラブでしたから、大きな型紙にモンスターを描いて、攻撃力や防御力も設定して。みんなで遊べるようにルールもつくりました。

50枚くらいつくり、シャッフルして1日1枚、友人にあげた。そしたら友人同士が戦闘力の強いカードの取り合いに。ランダムで配るルールのはずが、「ジャンケンで強いカードをよこせ」という人が出てきたり(笑)。そこでもまた母が先生に呼ばれて、自作カードゲームも終焉を迎えました。

──またまた炎上ですね! 幼少時代のPDCA感覚みたいなのが、もしかしたら今の仕事にも役立っているかもしれませんね?
あるかもしれませんね(笑)。

恵まれていない環境で戦いたい

──大学時代はカナダに留学されたとお聞きしました。なにを学びにいかれたのでしょう?
留学の目的は、最初は放浪でした。中央大学法学部に在籍し、司法試験を目指して、大学と予備校で勉強するダブルスクールもしていました。司法試験突破コースに通い、2年間やってみて「厳しいな」と痛感し、やめて一気進展。

ダブルスクールの下期授業料を、NOVAに行くために使いました。 別に英語が好きだったわけではなく、司法試験の勉強であまりに抑制された生活をしていたので、「人と喋りたいな」と。 NOVAのCMが、楽しそうだったというのもあって(笑)。誰かと会話をしなくてはいけないという環境は、司法試験で孤独に勉強詰めの環境とあまりに違い、それがまた楽しかった。

それで、半年後に大学休学して留学しました。抑制された生活の反動で、そのまま日本で過ごしていると「もっとこのコミュニケーションの楽しさを突き詰めたい!」という感情が収まらず、留学期間も決めずに飛び立ちました。就職のこともあまり考えずに、「もう1回、学生やり直そう」みたいな感覚でした。行き先をカナダにしたのも理由はなく、トロントはニューヨークにも近く、雰囲気がよさそうだという感覚だけ。特に英語をマスターしようという意識もなく。海外の大らかさやハピネスな空気感、すごくエモーショナルな感じに惹かれて、留学を決めました。

「自分が出ることで、みんなで輝きたい」

──アーティストは「ハイスタンダード」がお好きとのこと。パンクミュージック好きですか?

中3からカナダ留学時までバンドをやっていました。司法試験勉強中だけ休んでいましたが。 昔からパンクとかメロディコアのような音楽をやっていました。「ハイスタンダード」は、インディーズの日本人が海外でツアーする先駆けバンド。無名の時から海外にどんどん挑戦していった、すごくパンク魂を感じるバンドです。

僕が海外に行こうと思ったのも、そこに共感したから。「叩きあげられる」というか、恵まれていない海外の環境で戦う姿勢が好き。音楽性も、生きる姿勢も、僕のメンター的存在です。

――バンドでの担当はドラムだったとか。なぜドラムを?

ドラムをやる人の多くは、最初からドラムがやりたいわけでなく、ギターが増えるとバンドが成立しないから、諦めてドラムを担当することが多いと思います。僕も最初はギターをやっていましたが、それだとバンドが組めず、ならばドラムをやろうと。

そこでも「一軍として、一番前で輝きたい」わけではなく、「自分が出ることで、みんなで輝きたい」という気持ちはありました。それは、今の広告クリエイターという仕事にも通じます。 広告の仕事でいうと、タレントが一番光の当たるポジションですが、僕もつくる人として光が当たる。タレントほど前に出ませんが、仕掛ける側としてホメられたい、というか。

課題を解決するクリエイティブな仕事へ。

――「よくそんな面白いこと思いついたね!」という評価を得られる機会がある広告業は、そういう方に向いているかもしれませんね。博報堂に入社するにあたって、そんなことは意識しました?

何社か内定はもらいました。最後に迷ったのが、博報堂、バンダイ、アクセンチュア。コンサルティングに興味を持ったのは、叔父がマッキンゼーのコンサルタントで、書籍もたくさん出版しており無茶苦茶カッコいいと憧れていました。それに誰かの相談を受けて課題解決をする、ということが昔から得意でした。一番お金を稼げそうだなと(笑)。玩具やゲームに興味があったのでバンダイも惹かれました。悩んだ末、コンサルティングとおもちゃメーカーを足して2で割った感じが博報堂かもしれないと(笑)。おまけとか、食玩にも興味がありました。ペットボトル飲料についてるおまけ。あれをつくりたいな。博報堂でならできるかなと。

コピーライターになりたい。CMをつくりたい。そういった野望もなく、けれども、クリエイティブ職に就きたいとは思っていました。モノを集める、モノをつくる。昔からマテリアルにすることが好きだったので。今はそれだけでは満足できませんが、当時はそれをやりたかった。 コピーって、ある意味「二次元」。でも僕は「三次元」が好きで、立体的に何かをつくりたいという思いは当時からありました。

――博報堂入社時の仕事内容は?
博報堂入社1年目は、プロモーション局でディズニーランドのWebサイト制作をしていました。週2、3回は舞浜に行き、終日取材。

それで、入社2年目の2010年にカンヌ広告祭に行かせてもらった時、いろいろな受賞広告事例をみて、今までの概念をぶっ壊されました。クリエイティブの世界はこんなに面白いのか!と揺さぶられました。同時に、むちゃくちゃ悔しくなって、その場ですぐ帰りたくなってしまいました。

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