仕事の9割はつらくて、楽しいのは1割。それでも面白いから辞められない/TBWA\HAKUHODO 徳野佑樹さん(前編)

仕事の9割はつらくて、楽しいのは1割。それでも面白いから辞められない/TBWA\HAKUHODO 徳野佑樹さん(前編)

UNIQLOのグローバルキャンペーンから、認知症の方が笑顔で店員を務める「注文をまちがえる料理店」、あきらめない人の車椅子「COGY」、「SUNTORY WHISKY 3D on the Rocks」まで、企画とデザインがマッチしたクリエティブを複数手がけている注目のアートディレクター・徳野佑樹さん。その人間力に迫りました。

写真:徳野佑樹さん
徳野佑樹さん株式会社TBWA\HAKUHODO
多摩美術大学グラフィックデザイン学科卒業。2007年博報堂入社。2013年よりTBWA\HAKUHODOに所属。ポスター、VI、パッケージ、CMなど多くのデザイン領域を手がける。東京ADC賞、カンヌライオンズデザイン部門ゴールド、NYADCゴールド、CLIOゴールド、クリエイターオブザイヤー2018メダリスト、ACCイノベーション部門グランプリなど受賞多数。
【 目次 】
美大は絶対にムリって、なぜ?
自分と他人の感覚の差を、臆病なくらい意識する
美大生と一般大学生との差は「評価される」経験量
人の下でものをつくる経験から、学んだこと
チームで取り組む仕事は、力が一気に跳ね上がる。

美大は絶対にムリって、なぜ?

──徳野さんはどんな学生でしたか?
中学校に上がるまで割と優等生タイプでしたが、高校は勉強についていけず。数学の試験で一生懸命考えて、解答欄も全部埋めたのに0点! それなら地元の友人と遊んでいるほうが楽しいと開き直り、原付バイクに乗って、バスケやサッカーをして遊び、コンビニに寄り道して帰る…そんな毎日を送っていました。

もともとデザイナーを目指していたのではなく、美大進学も“消去法”的な発想でした。

──そうだったのですね。なぜデザインの道に進もうと思われたのですか?

高校2年の終わりに「絵は得意だから、美大に進もうかな」と美術の先生に相談したら、「おまえなんかが入れる世界じゃない。絶対にムリだ」と一蹴されました。「え? 僕、こんなに絵がうまいのに?」と呆気にとられつつ、先生に促されて予備校へ通うことにしました。そこで石膏デッサンをし、初めて講評を受けました。

皆の作品の中で、私のだけ鼻がびよーんと伸びていました(笑)。「自分では絵がうまいと思ったのに、一番下手だった!」という驚きがいまでも忘れられません。全然ダメなのに、それがなぜかイヤではなかった。特技を見つけたくて、それから夢中になって絵を描き続けました。

自分と他人の感覚の差を、臆病なくらい意識する

──大学ではどのような学生生活を過ごされたのですか?
美大に合格するまで2浪しましたが、途中で挫けませんでした。絵がどんどんうまくなって楽しくて仕方がなかったからです。

大学ではサークルにも入らず、出された課題を一生懸命やりました。周りはグループ展や自主活動に積極的でしたが、自分にアート性があるとは思えず、何かをテーマにした作品は気恥ずかしくて、僕は課題を頑張るだけでした。出された課題をパズルのように解くのが面白く、デザイナーのほうが向いてると思いました。

──そうなんですね! 課題に取り組む中でデザインに対しての考え方は変化しましたか?

そうですね。徐々に「伝える/伝えたい」という思いが強くなりました。

「これは絶対に面白いはず」と提出した課題に、「わからない」と言われることもありました。それを繰り返すうちに、段々と、自分が面白いと思ったものが、誰かにとっても面白いものであることが"たまに”あります。それはやっぱり嬉しいですよね。

僕は、自分の感覚と他の人の感覚との差を、臆病なくらい意識しています。伝わるポイントを探るうちに、少しずつコミュニケーションデザインの考え方が構築されたのだと思います。

美大生と一般大学生との差は「評価される」経験量

──日々自分の感覚を表現するのはなかなかできる経験ではないですよね。
博報堂の新人研修でも話していますが、「自分の思いを、人に伝えて評価される」という経験が美大生と一般大学生との差です。

美大生は、自分の表現に対して、「これ、君が思っているように伝わっていないよ」と否定される経験を繰り返したあと、社会に出る。逆に、ときには「これ、カッコいいから、いい!」みたいな評価を受けることもあります(笑)。それと比べると、一般大学生は評価されることに美大生ほど慣れていません。

──確かにそうですね。学生時代に影響受けたものは?
ap bank fesは学生時代に影響を受けたもののひとつです。Mr.Childrenと複数のアーティストが、環境保護をテーマに行う野外音楽フェスティバルです。初めて行ったとき、「エコもカッコいいな」と感じたのですが、これもある種のデザインですよね。

エコが流行りだした当時、警鐘的なメッセージが多いなか、フェスでは、こうすれば世の中がもっと良くなって楽しくなる、といったポジティブなメッセージで溢れていました。アートディレクターの森本千絵さんによる力も大きかったですよね。「音楽」と「持続可能な社会の実現」というテーマの融合に心から感動しました。

人の下でものをつくる経験から、学んだこと

──どうして広告業界を志望したのですか?
予備校時代に佐藤可士和さんがSMAPのアートワークでADCグランプリを受賞していました。それを知り、日本のデザインは、広告業界をけん引するグラフィックデザイナーの存在が大きいと意識するようになりました。

さらに福田繁雄さんの「VICTORY」をみて、デザインには「機能」があり、美しいだけのものではないと知り、デザイナーになろうと心に決めました。卒業後、博報堂に入社したのは、最初に内定をもらえたからです(笑)。

──そうだったのですね(笑)。入社後はどうでしたか?
博報堂は徒弟制度なので、入社後、丹野英之さんの下で4年間修行をしました。そこで初めて「人の下でものをつくる」経験をしました。これまで、全部自分で判断し、自分がいいと思ったものを人に見せるという経験しかなかったので、最初は違和感もありました。

しかし、趣味嗜好が完全に合う人なんて、絶対いない。それならば、一度丹野さんのやり方を身に着け、丹野さんの物差しを自分の中につくる。そのうえで、「自分だったらこうする」とアレンジを加えていこうと決めました。言い換えれば、丹野さんのために仕事をするスタンスに変えたのです。すると、人間性も含めて、丹野さんの素晴らしさを学べて、仕事も前向きに取り組めるようになりました。

チームで取り組む仕事は、力が一気に跳ね上がる。

──人の物差しを取り入れるのは簡単ではありませんよね。その後は順風満帆に進まれましたか?
いいえ。いよいよ独り立ちとなり、「これからは思う存分、自分の力を試せるぞ!」と張り切ったのに、最初はなぜかうまくいきませんでした。表面的には自分好みのものをデザインしているのに、本質的にうまくいっていないような…そんなジレンマを抱える日々が続きました。そして2年後、TBWA\HAKUHODO(以下、TH)へ出向。ここで一気に仕事がうまくまわり始めたのです。

──それはなぜですか?

その理由は、クリエイティブディレクター(CD)の存在です。自分の判断基準より上の基準を持つCDの下でチームとして仕事をすると、自分の力が一気に跳ね上がるような感覚、ドライブ感を経験できました。思えば、独り立ちしてからは、学生時代のように、自分ひとりで完結する仕事に陥っていたことにも気づきました。

僕にとって、チームは1つの社会。CDやコピーライターと話し合っていくうちに、判断基準のようなものが生まれ、このチームメンバーに通じれば、世の中にも通じるという手ごたえを感じられた。ただ、これは学生時代にひとりでつくったという基礎があってこそ、得られた感覚かもしれません。

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