失敗を恐れず、チャレンジをし続ける/アジャイルメディア・ネットワーク 上田怜史さん(前編)

失敗を恐れず、チャレンジをし続ける/アジャイルメディア・ネットワーク 上田怜史さん(前編)

人々が生み出す“好き”という気持ちやユニークなアイデアを大切にし、その価値を世界に流通させることで「小さな経済」を成長させ続けるアジャイルメディア・ネットワーク。

昨年上場も果たし、今後もますます活躍が期待されています。2014年から代表を務める上田怜史さんは自分がやりたいことを実現するために転職。

その原動力についてじっくりお聞きしました。

写真:上田怜史さん
上田怜史さんアジャイルメディア・ネットワーク株式会社
アジャイルメディア・ネットワーク株式会社 代表取締役社長 

商社にて建材を取扱い設計事務所や大手建設会社への営業活動に従事。外資メディア企業でのアドセールス、DeNAにて「モバゲータウン(mobage)」の企画セールスを経て、2007年アジャイルメディア・ネットワーク株式会社、2009年取締役、2014年代表取締役社長に就任。2018年東京証券取引所マザーズへ上場。

企業のファン育成・活性化を推進するマーケティング支援を国内外で行う。
【 目次 】
大学時代は「今しかできないこと」を満喫する。
高校の部活を中途で退部。不登校を経て生徒会長に。
入社2年目で大抜擢! 通説通り、初の地方赴任で3度泣いた!
広告業界へ転職。業界構造や商習慣の違いにとまどう。
30歳。将来やりたいことを実現するために、アジャイルへ。

大学時代は「今しかできないこと」を満喫する。

――上田さんのご経歴を教えて下さい。
現在、代表を務めているアジャイルは3度の転職を経て4社目です。

新卒で入社したのは、建材商社でした。工業高校と大学で専攻した建築に携わりたいと思ったからです。

一方で、大学時代にホテルで配膳サービスのアルバイトを経験し、学生ながら披露宴のキャプテンを任され、自分の適性は設計よりも、商材の価値を伝える仕事のほうが向いているのではないかと考え、営業職を志望しました。

――どのような大学生活を過ごされていたのですか。
大学での一番の思い出は、旅です。バックパッカースタイルでアジアを中心にひとりで放浪しました。
何をしに…?と聞かれると困るけれど、気の向くままに日の出を見たり、遺跡を訪ねたり…。
旅の時間そのものが日常になっていく感覚がとにかく楽しい。
旅の中で、あそこで右に曲がらなかったら、この人には会えなかった。左に曲がったから、あの景色が見られた。そんな自分の選択による偶然が積み重なり、さらに旅が特別なものになっていく。

社会人になったらこういう旅の仕方ができないだろうな、と明確にわかっていたからこそ、「今しかできないこと」を満喫できたと思います。

高校の部活を中途で退部。不登校を経て生徒会長に。

――就職活動ではどのようなエピソードをお話されましたか。
就職活動を通して「自分について言語化し、人に伝える」のは、この時が初めて。すごく難しくて不安に感じたのを憶えています。
みんな似たようなことを言うし、自分の経験のなかから、どの部分を選べばいいのかわからない。私は先ほどお話しした旅の話と、もうひとつ、高校で生徒会長を務めた経験を中心に話しました。

――生徒会長だったんですね。どういった理由で生徒会長に?
実は中高時代、部活動でバレーボールをやっていたのですが、練習に参加しない先輩に腹を立て、高校2年時に辞めたんです。

学校には、球を打ちに通っていたという感覚でしたので、もう行く意味がないと思い、しばらく行かなくなった時期もありました。ですが、家族と話し合った結果、ちゃんと卒業しようと思い直し、勉強もするようになった矢先、周りからそそのかされて生徒会長に立候補することに。

単独候補かと思いきや、三つ巴の選挙戦になってしまい、公約を掲げて選挙活動もやり見事当選(笑)。

実際、やってみたら楽しかったですね。壮行会で部活動を頑張っているメンバーを応援する側の立場になり、間接的な形ではありますが、かつてのチームメイトを応援できたことで、私なりに救われたと感じました。

入社2年目で大抜擢! 通説通り、初の地方赴任で3度泣いた!

――新卒で入社された会社ではどんなことを?
建材商社に入社してまもなく、新入社員がそれぞれ将来の目標を宣言するという機会がありました。

私は「課長になりたいです!」と元気よく宣言したのですが、志が低すぎると人事から怒られまして(笑)。

「上田くん、頑張ればなれちゃうから、もっと上を目指そう」と発破をかけられました。

――確かに、課長を目指す宣言は怒られるかも知れませんね。笑 その後はどういったお仕事を?
そして2年目に、事業部内人事の抜擢により、小さいながらも担当部門の拠点長となり、新潟に赴任しました。

ところが、まだ2年目ということもあり、既存顧客には信頼されない上、既存顧客に依存したくないと新規開拓を試みたものの、うまくいかない。夏ぐらいになってようやく、嫌われたままではダメだと反省しました。

そこで、本社の上役や、応援してくれていた得意先の若手社員の方々に相談。

自分たちの価値を伝える前に、まずお客様の仕事を理解し、サポートするスタイルに転換した結果、幸いにしてうまくいきました。

「地方(赴任)は3度泣く」という通説があります。

最初はうまくいかなくて泣き、初仕事で泣いて、帰るときに泣く。まさに私もそう(笑)。

売上や利益の前に、関わる「人」と向きあい、プライベートも含めて良い関係を築くことを学べました。

広告業界へ転職。業界構造や商習慣の違いにとまどう。

――広告業界にはどういった経緯で?
社会人になって5年目、広告業界に転職しました。

会社自体はものすごく好きでしたし、仕事にも満足していたのですが、その一方で、当時ビジネスにイノベーションを起こし続けているインターネットが気になり始めていた。

そんな折、かつて配膳アルバイトの先輩に誘われ、外資メディア企業のアドセールスとして入社しました。

――以前のお仕事と違いなどはありましたか?
建築業界と広告業界では、業界構造や商習慣がまるで違います。

前職では、「あいつはあの時、これを手伝ってくれた」といった、見積もり項目にないものが評価され、関係値構築ができると一気に商流が変わったりする。

今度の業界ではどうやって営業をかけたらいいのか、わからない。

とりあえず新聞を開き、毎日、片っ端から電話をかけていたら珍しがられ、「上田を見ならえ」などという、謎の評価を受けていました(笑)。

何事も勉強だと思って、一つひとつ仕事を覚えていき、販売メニューを作っていった。

そして1年半後、もっとBtoC向けの商材を取り扱っているメディアビジネスに携わりたいという思いから、当時、モバイルで勢いのあったDeNAに転職しました。

30歳。将来やりたいことを実現するために、アジャイルへ。

――DeNAではどういった仕事を?
入社した当時のDeNAは、モバイル領域において、新たなルールをつくるマーケットリーダー的な役割を務めていました。会社自体のスピード感がすごくて、優秀な人たちが頑張っている、とてもいい環境でした。

かなり忙しく、夜中の2時、3時まで仕事をしてから帰宅し、また家でパソコンを開くといった生活を送っていました。

まだFacebookやTwitterが出てくる前でしたが、「モバゲータウン(mobage)」担当として立案した企画で、何十万の人が参加するなど、SNSの力を肌で感じることができ、充実感でいっぱいでした。

そんな時、創業して間もないアジャイルメディアの役員に就任した元上司から連絡があり、「資金調達して人を雇えるようになったから、来てくれ」と。大変お世話になった方でしたが、もちろん即答でお断りさせていただきました(笑)。

――1度断れたんですね(笑)その後なぜ入社することに?
元上司から、「上田、おまえは将来、何をやりたい?」と何度も問われるうちに、目の前の仕事があまりにも忙しく、自分自身の将来について考えられなくなっている自分に気づきました。気づけばもう30歳。

名刺の社名や肩書を外した個人でもビジネスを起ち上げたい。そうなると成長するのは今しかないと考え、転職しました。

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